はな劇場

地下1階。土壁に囲まれた、アップライトピアノとステージだけの場末パブ。Googleマップには載っていません。

【小説】真夏の胡蝶 最終章

 私たちは悪夢を見ていたのだろうか。それともこれが現実ではなく夢の中なのか。

 もと来た道を戻りながら、ダンは黙ってまっすぐ前の道路を見つめているだけだった。

「何を考えてるの?」

 ここへ来るとき彼が私にした同じ質問を彼に問い返した。

 

「誰かが死体を動かしたんだ」

 彼は、苦々しく吐き出すように言った。

 この二日間、うちにやってきた人たち、出会った人たちを思い出した。隣人のピーターとクラウディア、ボストンからやって来たセイとスーザン父娘、隣のアンドレ、会計士のローラ、木こりのウィル。

 その中の誰が、死体を動かす必要があっただろうか?

「でも、トランクにはカギがかかっていた…」

といってから、ハッとした。トランクがうっすらと開いていたことが数回あった。いつといつだっけ? そのときしか、トランクの中身を持ち運ぶことはできなかったはずだ。

 さっきトランクを開けた時のショックで、頭がまだぼんやりしているみたいだった。冷静にならなくては、と自分に言い聞かせた。

「アンドレよ」

 おもむろに私は口を開いた。「二匹の犬を放って、私たちが家から出られないスキを狙って、ヤツを運び出したんだわ」

「でも、その前の夜、君は確かにトランクを閉めた」

「そう、だけど」

「とにかく」

 ダンは深い吐息をついて続けた。「予定通り、ペンキを買いに行こう。僕たちは今日、ペイントを買いに来たんだ。そのために外出した、いいね」

「うん」

 こうして私たちは、ペイントを買いに近くのDIYショップに立ち寄った。昨日はジンファンデルカラーにしようと言ったけど、実際のペイントの色を見て気が変わった。「血の色みたいね」といったスーザンの言葉がリフレインしたからだ。

 その代わりに、スパニッシュオリーブという色を購入することにした。少しだけ灰色がかったオリーブ色。

 

 ペイントの缶を後部座席の足元に収め運転席に座ると、ふと思い出したようにダンが聞いた。

「君、もしかして死体に触ったかい?」

 一瞬否定しようとして、思い出した。

「さわった、一度。昨日の朝、トランクから黒いゴミ袋が見えてて、しまい直したときに男の腕がニュッと垂れてきたから、それをつかんで戻した」

 言いながら、そのときの手の感触を思い出して目が潤んだ。

「わかった」

と、ダンは押し殺した声で言った。

「何、指紋とか、そういうこと?」

「君は、移民手続きのときに指紋を取られているはずだ」

 いわれてみれば、確かにそうだった。

 私の移民手続きは少し特殊なケースで、詳細の説明は省くが、モントリオール市内の警察署で指紋を取ってもらう必要があった。そのときの記録は警察署内に保管されているはずだ。その同意書にもサインした。

 不安そうな顔をする私を慰めるように彼はつづけた。

「そんなに心配することないよ。誰かがアレを動かした、ということは、僕たちの他にもあの男の死体が見つかってほしくない人間がいたということだ。そいつがヤツを始末してくれたなら、かえって好都合じゃないか」

 私は彼ほど楽観的にはなれなかったが、それでも消えてしまったものは仕方ない。私たちには、もうどうしようもない。

 それよりも、さっさとあの部屋の壁を塗り替えてしまおう。新しい部屋に変えてしまうんだ。そうすれば、少しは気分も晴れるはずだ。そこまで考えて、急にお腹が空いてきた。

 

***

 

 月日が経つうちに、あの男は蝶の化身だったんじゃないかと思えてきた。多分、そう思い込みたかったのだろう。

 あの小さな湖の湖畔でトランクを開いたとき、一羽の蝶が飛び上がった。彼は、蝶になって飛んで行ったのではないか。そう信じ込むことができたら、そのほうがよほど楽ちんだ。私の胃の中のざわつきも、蝶となって昇華されるような気がした。

 私たちの日常は考えられないほど普段と変わりなく過ぎて行った。

 相変わらず金曜日の朝は、ピーターとクラウディアと一緒にブランチを食べ、隣のアンドレは彼の工具をガチャガチャいわせ、泣いたり笑ったりする二人の男の子を母親のイザベルが適当にあやしていた。

 危険な犬をライセンスなしで飼っていたデイモンドは警察の指導を受け、アンドレ宅の向こう側に住むジム夫妻は新しい雌鶏を飼い始めたらしい。

 特別エキサイティングなこともない、田舎の毎日。

 

 私たちは二階にある一番小さな部屋の壁をスパニッシュオリーブ色に塗り替えた。もともとライム色だった小部屋は少し落ち着いた色で狭くなったように見えた。ついでにシーツと枕カバーも新しいものに取り換えると、まるで別の部屋に生まれ変わったみたいだった。

 自家菜園を拡大し、耕して野菜を育てた。前庭には新たに花を追加し、花壇らしく華やかにしつらった。

 ベトナム人のセイは、いったんハノイに戻ったものの、アメリカで講師としての継続勤務が認められ、再度二年間ボストンに滞在することが決まった。夏が終わって秋の学期開始にはアメリカに戻るらしい。

 今年はカナダにしては記録的な猛暑で、雨も少なかった。暑さに弱いピーターは会うたびに愚痴をこぼしていたが、水泳が好きな私は近くの湖でしょっちゅう泳げるのでうれしかった。

 

 そして、暑い夏が終わりに近づいたある日の早朝、アンドレの家に多数のパトカーが乗りつけた。田舎ではめったにない光景で、近所の者はみな野次馬に集まっていた。

「いつかこんな日が来ると思ってたぜ」

と、腕組みをしたピーターがいった。「大麻の過剰栽培だろう」

「それだけじゃないらしい」

 突然、会話に割り込んできたのは、アンドレとイザベル宅の向こうに住んでいるジムじいさんだった。サンタクロースのような白く長いあごひげをなでながら、

「どうやら、殺人らしいぞ」

「えぇ?」

 私とダンが、その場にいた誰よりもギョッとしたことはご想像通り。

「しかも池に捨てたらしい。バカな奴だ。あんな小さな子供がいるのに」

 連行されるアンドレを、二人の男の子の手を握ったイザベルが玄関先に立って不安そうに見送っていた。

「殺されたのは売人だってさ。俺も街で何度か見たことがあるやつかもしれない」

 ジムはもったいぶるように静かに語っていたが、その場にいたみんなが彼の話に耳をそばだてていた。

「今年は雨が少ないからな、沼の水位が下がったところ、ビーバーダムに死体がひっかかっていたんだ。水でふやけてぶにゃぶにゃだ」

 ―――きっと私の指紋も消えてなくなっているに違いない。

 ぼんやりと彼の声を聴きながら、心の中でそうつぶやいた。

 アンドレと押収した二百株以上の大麻を乗せて、警察車両は走り出した。夏の名残の暑さで発酵したような草いきれに少し吐き気を覚えながら、私はいつか見た夢を思い出した。

 ビーバーに支配された湖で一人浮かび上がったその男は、きっと大量の蝶で覆われていたことだろう。ゆっくりと羽ばたく無数の蝶に。

 

 こうして、カナダにしては異常に暑い夏が終わり、私はもう蝶の夢を見なくなった。

 

 

(おしまい) 

 

 (この物語はフィクションです。実在の人物や団体とは100%関係ありません)