はな劇場

地下1階。土壁に囲まれた、アップライトピアノとステージだけの場末パブ。Googleマップには載っていません。

【小説】真夏の胡蝶 5/7

 翌朝は六時前に目が覚めた。この時期とっくに空は明るくなっている時間だ。すでにダンが起きていて、キッチンでコーヒーを入れていた。

 二階のゲストはまだ起きた気配がない。特に娘の方はよく眠るほうだと言っていたので、遅い朝食になるかもしれない。

 
 熱いコーヒーカップに息を吹きかけながらすすっていると、リビングの大きな窓ガラス越しに、何者かが動いているのが見えた。

 ギョッとして窓辺に行くと、それは隣家アンドレの犬だった。茶色と黒の二匹の大型犬が、舌を出して何かを探しているかのように、家の前をウロウロしていた。短い毛でおおわれた滑らかなビロードのような皮膚の下に、無駄のない引き締まった筋肉が連結して動いているのが見えた。

「ジーザス、どうなってんだ。アンドレは何を考えてる」

 さすがに温和なダンも、これにはイライラしてそうつぶやいた。すると、隣の家から小さな子供の泣き声が聞こえて、犬たちは前後してそちらへ走り去っていった。

 ダンはまだ用心深く窓の外をにらみつけていた。

 私は、ベトナム人父娘がいつ起きてきてもいいように朝食の用意をし始めた。彼らはパンよりもご飯派らしいので、炊飯器に白飯をセットした。アジア風のスープと、起きてきたらすぐ加熱できるように卵焼きの用意もした。

 

 そうしているうちに、セイが起きて降りてきた。

「おはよう」

「おはよう、よく眠れた?」

 彼は寝癖のついた髪をそのままに、

「おかげでぐっすり。ここは静かだね」といった。

「セイ、コーヒー飲む?」

「いいね。ありがとう」

「スーザンは?」

「まだ寝てるみたいだけど。お腹が空いたら起きてくるだろう」

「今日は何時にモントリオールへ向かうんだい?」

 熱いコーヒーを渡しながらダンが聞いた。

「友人とランチを約束しているから、朝十時にはここを出たいな」

「モントリオールもいい天気みたいよ、ラッキーね」

 彼らがやってくる数日前までは雨が降り続いていたが、昨日から持ち直し、今日はすでに青空が見えていた。

 

 コーヒーを飲みながら、しばらく会話をした後、ダンが切り出した。 

「セイ、散歩に行くかい?」

 先ほどまでウロウロしていたアンドレの二匹の闘犬が気になるところだったが、さすがに家に戻っただろう。セイだって、ただ家の中でしゃべっているだけではせっかくここまで遊びに来た意味がない。

「この近くに、ビーバーの作ったダムがあるんだ。スーザンもいっしょに行きたがるかな?」

 ダンがそう提案すると、セイは二階のスーザンのいる寝室へ上がっていた。セイがベトナム語で何か言うのが聞こえたが、すぐに彼は戻って来た。

「娘はまだ眠いって。僕たちだけで行こう」

 

 家の裏手にはいくつかの湖がある。湖、といってもちょっと大きな沼のようなものだ。そこにはビーバーが生息していて、私がここにやってくる前から、なかなかしっかりした作りのダムがこしらえられていた。

 ビーバーは、人間以外の動物で唯一環境を破壊する生き物だといわれている。鋭い歯で、垂直に立つ樹々の幹をまるで鉛筆のように削り倒し、自分たちの住む水辺へ運び、ダムを造るのだ。時には、水辺から十数メートル以上離れた森林でも彼らの仕業の痕跡を見つけることがある。

 ただ、人間の都合から言うと、あちこちの小川や湖でみだりにダムを造られては、水流が変化し生態系にも影響を及ぼしかねない。彼らの作ったダムのせいで道路に水があふれることもある。それで、自治体からビーバーダムを破壊するチームがときおり出動している。

 先週降った大雨のせいか、ビーバーダムの水はいっぱいいっぱいにあふれていた。ダムの隙間から流れる水が小さな水流となっていたが、それでも木の枝を集めただけのダムで大量の水を保持できているのには感心する。

「これはすごい」

と、セイも感心して、スマホでバチバチ写真を撮っていた。

 

 底まで見渡せるくらいクリアな淡水を眺めながら、昨夜見た夢を思い出した。美しい悪夢だった。いくつもの蝶に囲まれて私はいっしょに空を飛んでいた。

 湖の中に浮かんでいたあの男は、完全に自然の一部だった。自然を前にして善人も悪人もない。人を裁くのは自然ではなく人間だ。無数の蝶に囲まれた私は、彼を殺した罪人として報いを受けるのだろうか。それとも…

 

 ふと気が付くと、一羽の蝶が水面から突き出す太い木の枝の先に止まっていた。蝶はゆっくりと羽をはばたかせ、開いてはまた閉じた。

 今年大量に発生した蝶は何かの象徴なのだろうか。

「…この辺には、いろんな蝶が多いね」

 蝶に気が付いたセイが言った。

「今年は特に蝶が大量発生してね。十二年に一回の周期で、こういうことが起こるらしい」

 私たちはゆっくりと家の方に戻り歩き出した。

 

「スーザンは、まだ起きていないみたいね」

 戻ると家の中はまだ静まり返っていた。

「まったく、いつまで寝るんだ、あの娘は」

 セイはそうつぶやいて、キッチン横の階段から二階の部屋に向かって「スーザン!」と呼びかけた。その後ベトナム語で何か言っていたが、多分早く起きて朝食を食べろと催促していたのだろう。

 ダンがテーブルセッティングをしている間に私がたまごを焼き、朝食の用意ができたころ、やっとスーザンが下りてきた。

「おはよう、スーザン。よく眠れた?」

「うん」

 彼女は、まだ寝ぼけた様子でうなずいた。

「スーザン、お腹空いただろ」と、セイが彼女を朝食へ促した。

「うん! お腹空いた!」

「食べたら、すぐモントリオールに向かって出発しなくちゃね。今日はいい天気だから、観光日和だよ」

 

 朝食をゆっくりとった後、彼らは手早く荷造りし始めた。

「ダン、エリ、ありがとう。楽しかったよ。料理もぜんぶ美味しかった!」

「また、今度はハノイで、かな」

「かもね。もしかしたら再度アメリカに戻ってくるかもしれない」

「いずれにしても、どこかで必ず、近いうちに」

「本当にありがとう。またね」

 私たちは二人が荷物を車に運ぶのを手伝って、駐車場でお別れのハグをした。

「気を付けて。バイ!」

 彼は注意深く車を操縦し、ゆっくりと坂道を降りて遠ざかって行った。助手席に座ったスーザンが、ほとんど見えなくなるまで手を振っているのが分かって、微笑んだ。

 

 彼らの車が無事に走り去るのを見届けて家の中に戻ると、時計はすでに十時二十分を指していた。

「ローラから連絡は?」

 私は朝食の食器を片付けながら、ダンにきいた。今日の午後には、会計士のローラが書類を持ってやってくることになっていた。

「さっき、テキストメッセージが入ってた。多分正午になるって」

「OK。じゃあ、私二階のベッドルーム掃除してくる」

「僕は、ゴミを出すついでに車を移動させとくよ」

 午後、木こりのウィルが薪木をおさめにくるので、そのためのスペースを駐車場に確保しておく必要があった。彼がいつ来てもいいように、自分たちの車は玄関前につけておく習慣になっていた。

 

 父娘が使った青い部屋とライム色の部屋の窓を開け、シーツを取り換えた。一泊だけだったし部屋は汚れた様子もなく、きれいなままだった。外したシーツと枕カバーをもって階下に降りようとしたとき、ふと二階の窓からゴミ置き場の横でダンが誰かと立ち話をしているのが見えた。二人の警察官だった。

 心臓がきゅっと縮こまるような思いがした。この辺りで警察官の姿を見ることはほとんどない。嫌な胸騒ぎがして、駆け下りるように階段を下りた。

 私が家の外に飛び出したときには、すでに二人の警察官はパトカーで走り去るところだった。

「どうしたの、何だったの?」

「君…、よかったよ。彼らにそんな青ざめた顔を見られないで」

 ダンは口をパクパクさせる私に向かって説明した。「デイモンドのことを聞かれた」

 デイモンドは、少し南側に坂道を下ったところに一人で住んでいる男だ。

「あいつ、大きな番犬を飼ってたろう。あれはライセンスがいるらしい。どこか住民から通報があったみたいだ。彼と犬のことを知っているか、と尋ねられた。留守だったみたいだな」

「なんだ、そんなこと」

 私が胸をなでおろしたとき、彼の電話が通知音をたてた。

「ほら、ローラだ。もう近くまで来てるって」

 




 (この物語はフィクションです。実在の人物や団体とは100%関係ありません)