はな劇場

地下1階。土壁に囲まれた、アップライトピアノとステージだけの場末パブ。Googleマップには載っていません。

【小説】真夏の胡蝶 3/7

 一階のダイニングルームに降りて、お腹が空いているという親子にチャーハンを食べてもらった。私たちはあまり食欲がなかったので、サラダをつまむだけにしておいた。時刻はすでに三時を少し回ったところだ。

 「ちょっと早いけど、休日だからね。ワイン飲む?」

 ワインが好きなセイが快諾し、夫はワインを選びに行った。

 特別ワインセラーは用意していないが、一階ベッドルームのすぐわきにある小さなスペースは常に冷涼な気温が保たれるので、ワインはそこにストックしていた。

 彼が席を離れてすぐ、彼の電話が鳴った。

「ダン! 電話鳴ってる」

「誰から?」

 彼のスマホの通知名を見て答えた。「ローラ」

「ローラ? ヘンだな、なんだろう」

 ローラという名前で私が知っているのは、彼の会計士だった。

 

「確定申告のことじゃない?」

 ワインを片手にダイニングへ戻ってきたダンにそういった。

「そうかもしれない。ちょっとかけ直してみるよ」

「じゃあ、私がワイン、開ける」

 彼が選んだワインは、カリフォルニア産のジンファンデル。彼から受け取ったワインボトルを開栓し、三脚のワイングラスに注いだ。

 

「きれいな色。血の色みたいね」

と、スーザン。子どもは本当に、ときどきギョッとするようなことを言ってくれる。

 チャーハンを食べてお腹がいっぱいになった彼女は退屈そうに、今は火が入っていない暖炉の前にある、ロッキングチェアーに座ってゆらゆら揺り動かし始めた。

「やっぱり確定申告だった。クライアントとの打ち合わせのついでに、明日書類を届けに来るって。サインが要るみたいだ」

「明日? 何時?」

 嫌な感じがした。

「さあ、近くに新規のクライアントが住んでるらしい。そのついでによると言ってるから、クライアント次第だと思うけど、多分午後じゃないかな」

 のんびりと何でもないように言う彼にイライラした。

「なんで、断らなかったの? 私たちだって、明日暇なわけじゃない…」

「仕方ないだろう。訂正箇所があって、どうしてもサインが必要なんだ。メールで書類を受け取って印刷してサインして送り返すとなると、政府の締め切りに間に合わなくなる。うちには印刷機もないし。来てくれるなら好都合じゃないか」

 私たちはカナダの税制上、スモールビジネス(小規模事業)ということになっていて、その申告締切は毎年六月だった。

 

「なんか、忙しいそうなときにお邪魔して悪かったかな」

 ワイングラスを手にしたセイが申し訳なさそうに言うのを私たちは慌てて否定した。

「違うよ、セイ。ぜんぜん忙しくないんだ。たまたま重なっただけさ。わざわざ来てくれてありがとう。さあ、乾杯しよう」

「スーザンも遊びに来てくれてありがとう!」

 大人たちと乾杯した後スーザンに向かって微笑んだ私は、彼女の足元を見て凍り付いた。彼女の座っているロッキングチェアーの足に血が点々とついて、彼女のソックスの小指部分を赤く染めていた。

 きっと、死体を運ぶときに、チェアーの足に何かがひっかかったのだろう。

 私は一瞬目まいがして、ハッと気が付いたときには手の中のワイングラスが床の上で割れていた。

 

「エリ!」

「ごめんなさい」

 すぐに気が付いて、スーザンを見た。「スーザン、動かないで。ガラスが散らばってるかも。片付けるまでそこにいて」

 キッチンからクロスを取って来て、床に広がったガラスの破片と赤いジンファンデルワインをぬぐった。そしてついでに、ロッキングチェアーの足に付着していた赤い液体も。

「スーザン、ケガしたんじゃない? 靴下に血がにじんでる」

 いかにも、床を拭き掃除していて気づいたという風に、彼女にそう言った。

「大丈夫か、スーザン」

 心配そうな顔をする父親に、無邪気なスーザンは、

「え? あ、本当だ」と靴下を脱いで、どこを怪我しているのか探した。

「ん? どこもなんともないよ」

 小さな足の指を広げたり狭めたりして、父親に見せる彼女。

「じゃあ、ワインだったのかもね。水洗いすればすぐ落ちるわ」

 私は彼女から靴下を受け取って、台所用洗剤をつけて擦り洗った。「ここに干しておけば、明日の朝までには乾くわ、きっと」

「うん、ありがとう」

 なんでもなかったかのように、少女はまたロッキングチェアーに戻り、父親のスマホでゲームを楽しみ始めた。

 

「エリ、大丈夫?」

と、心配そうにするダンに向かって、私は促した。

「大丈夫よ。さあ、飲み直しましょう」

「OK。じゃあ、僕新しいグラスを持ってくるよ」

 彼が食器棚からもう一つワイングラスを持ってきてワインを注いだそのとき、玄関のドアをノックする音がした。

 

 ―――今度はいったい、誰...!

 そう思って扉を開けると、今朝いっしょにブランチを食べたばかりの隣人ピーターが立っていた。

「ハイ、ピーター。さっきは朝食をありがとう。どうしたの?」

「ハイ、エリ。ダンはいるかな」

「どうした、ピーター?」

 すぐにダンも玄関にやってきた。

「やあ、ダン。チェーンソー用のオイル、余分はないか? ちょこっと使いたいんだけど、オイル切れみたいで動かないんだ」

「ああ、あるよ」

と、軽く返事をしてしまってから、ダンはハッと気が付いた様子で「いや、その…、車のトランクかもしれない」

 私は思いきり舌打ちをしたい気持ちで、ダンをにらみつけた。

「車のトランクだね」

 ピーターはそう言って、車の方へ向かおうとするダンと足並みを合わせ、いっしょに歩きだそうとしていた。

 彼にトランクの中身を見せてはいけない。

 お酒に目がない彼に向って私は、

「ピーター、この前オンタリオ州でイギリスビールを買ってきたの。飲まない?」と声をかけた。ピーターはビール党なのでワインは好まない。

「そうか、いいね。でも、チェーンソー使いたいからな、酔っ払うとまずいんで…」

 車の方へ向かって歩き始めているダンに追いつこうとするピーターを、私はなおも引き留めようとして言った。

「ピーター、紹介するわ。ベトナムから古い友人が来てるの」

 社交的なピーターはこの誘いには断りようがなかったようで、やっと室内に入ってきた。

 

 

 (この物語はフィクションです。実在の人物や団体とは100%関係ありません)