はな劇場

地下1階。土壁に囲まれた、アップライトピアノとステージだけの場末パブ。Googleマップには載っていません。

【小説】今夜も独り飲み I.W.ハーパーの章

「ハーパー、ください。水割りで」

 一人飲みする女性客の中でも、妙に色気があって男性客にも人気のヨーコさんはそう言って、スツールにどっさと腰を下ろした。もうすでにどこかで何杯か飲んできているようだ。

「かしこまりました」

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 I.W.ハーパーは、数あるバーボンの中でもちょっとエレガントなタイプといえるだろう。スムーズな飲みやすさで、女性客の愛飲者も多い。バーボンというと少し雑味があって「通好み」というイメージがあるかもしれないが、ハーパーはその中でも洗練されていて飲みやすい。

 

「マスター、私、離婚することにした」

 宵の口、まだ店には他の客がない隙を狙ってか、彼女はいきなりプライベートな話を始めた。できるだけ驚いた表情をしないように努めながら、

「そうですか」

とだけ、返した。

「…なあに、マスター。理由とか、聞いてくれないの?」

 やはり、もうすでに少し酔っているらしい。甘えたような声を出すのは、ヨーコさんがいい気分になってきている証拠だ。これに男性客が惹かれるのは至極当然のこと。

「どうしてですか?」

 少し微笑んで彼女に尋ねた。ヨーコさんはハーパーをごくごくと飲みほして、グラスをカウンターに置くと、ふーっと長い溜息をついた。

「ぜーんぶ、私のせいなの。私みたいな女と結婚した彼は運が悪かったのねぇ」

 空になったグラスを見つめながら、ひとり言のようにそうつぶやいたとき、店の扉が開いて女性が一人、入ってきた。

 

「いらっしゃいませ」

 見たことのない女だった。おそらく三十代後半、オフホワイトの上品なスーツと有名ブランドのサングラスを身につけた、上流階級の奥さんという雰囲気だ。私の店の客にはあまりないタイプだ。

 その女性は店内をぐるっと見回して、ヨーコさんから一つ席を空けた隣に座った。

「マスター、おかわりちょうだい」

 ヨーコさんがカウンターの上で空になったグラスをこちらに押し出しながら言った。

「私も、同じものを」

 新規の女性客が言った。

「かしこまりました」

 私は二人の女性客に等しくハーパーの水割りを作り、それぞれの目の前にグラスを置いた。なみなみと注がれたバーボンに、待ってましたとばかりに手を伸ばし唇を付けるヨーコさんから視線を外し、スーツの女性に微笑みかけた。

「こちらへは初めてですね。どなたかの紹介でしょうか…?」

 すると彼女は、グラスには手を付けず、まっすぐに私の眼を見たまま静かに言った。

「私、シンイチさんの妻です」

 

 ヨーコさんの手にあるバーボンのグラスが宙で停まった。

「シンイチさんの妻」といった女性のサングラス越しの目は、にこりとも笑わず、私の方を見据えたままだった。

 ヨーコさんは、いったん固まったグラスにまた口を付けてグイっと飲むと、その女のことは見向きもしないで前方をじっと見つめていた。

「…私の後を、つけてきたんですか」

「ええ、あなたたちがホテルで別れたところから」

 ヨーコさんの顔がみるみる紅潮した。キッとその女の方を睨みつけたので、激高するのではないかとヒヤヒヤしたが、彼女が必死に感情をコントロールしようとしているのがわかった。新規客の女は、相変わらず冷ややかに私の方だけを見つめている。

「あなた、旦那さまとは別れない方がいいわよ」

 そういって、彼女は初めてハーパーに口を付けた。ヨーコさんはますます顔を赤くほてらせたものの、何を言っていいのか分からないのか、口をぽかんと開けたままだった。

 

「これ、飲みやすいわね。マスター、これは何というお酒?」

「I.W.ハーパーです。ドイツ系アメリカ人が作ったバーボンの一種です」

「そうなの、初めて飲んだわ。素敵なお酒を教えてくれてありがとう」

 彼女が初めて笑顔を見せた。

 

「私の夫はね、これが初めてじゃないの。だから、それで突っ走るのはやめた方がいい。でも」

 残りの水割りを一気に飲みほして、その女性は続けた。

「おかげで美味しいお酒に出会うことができたわ。素敵なお店も」

 そういって一万円札をカウンターに置いた。

「彼女の分もいっしょに。ごちそうさま、おいしかったです」

 スツールから立ち上がり、女は店を出て行った。

 

 ヨーコさんは何も言うことができないまま、空になったグラスを握りしめ、カウンターの中をじっと睨みつけていた。

「もう一杯飲みますか?」

 ぽろぽろと大粒の涙を流す、まだ二十代の女性に聞いた。

「いいえ、もう結構です。ハーパーは二度と飲まない」

 そのままカウンターに突っ伏してしまった若い女性の前からグラスを片付けながら、今夜はもう誰も来なければいいのに、と思った。